ずっとやりたかったことを、やりなさい。 [book]

ずっとやりたかったことを、やりなさい。 / ジュリア キャメロン (著), Julia Cameron (原著), 菅 靖彦 (翻訳)

ずっとやりたかったことを、やりなさい。

タイトルの訳がいまいちな気がしますが、原書タイトルは「The Artist's Way」です。
要するに、自分の内に秘めたアーティストがやりたいこと、昔やりたかったのに日々忙しく生活していく中で、忘れてしまったこと、あきらめてしまったことを、やってみませんか、という内容です。

確証には12週間で行う課題が設定されています。

そのベースになるのが、モーニング・ページとアーティスト・デートです。
モーニング・ページは朝に 3ページ自分の思いをそのまま書き綴っていくという作業です。
考えて書くのではなく、思いついたことをそのまま書いていきます。

アーティスト・デートは、週1回、2時間は自分の内なるアーティストとデートをしよう、言い換えると、自分の創造性を伸ばすようなインプットをしましょう、ということです。


ややスピリチュアルな感もありますが、モーニング・ページを試してみました。
初めは考えてしまい、3ページ書くのに50分くらいかかってしまいました。
朝の 50分を使うのはとてもヘビーですが、Amazon の評価がよいものばかりなので、しばらく試してみようと思います。


以下、読書メモ。

pp.25-26

モーニング・ページとはなんだろう?ひと言でいうなら、三ページほどの手書きの文章であり、意識の流れをありのままにつづったものだ。
ーーああ、また朝がきた。何も書くことがない。カーテンを洗わなくっちゃいけない。昨日、クリーニングに出した服を受け取ったっけ?くだらない……。
もっとくだけた言い方をするなら、それは「脳の排水」と呼んでもいいかもしれない。脳の中を掃除することが目的だからである。
モーニング・ページには間違った書き方というものはない。


p.28

モーニング・ページは文字どおり、私たちを向こう側に連れていってくれるのだ。私たちの恐怖や否定性、気分の向こう側である。私たちは、検閲官の戯言が届かないところに、自分自身の静かな中心を見出すのだ。


p.33

しかし、実際のところアーティスト・デートとはなんだろう?アーティスト・デートとは、あなた自身の創造的な心(それを本書では、内部のアーティストと呼ぶ)を育むために特別に確保される、週二時間ほどの時間のかたまりである。基本になるのはそのものずばり、デートだ。とはいっても、連れがいるわけではない。それは、あなたと内部のアーティスト、すなわち自分の内部にいる創造的な子どもとのデートなのだ。つまり、恋人も、友人も、伴侶も、子どもたちとも無縁だということである。


p.34

あなたの中のアーティストは子どもである。親と過ごす“時間”のほうが、費やされる”お金”よりも重要なのだ。大型雑貨店に行く、ビーチへのひとり旅、ひとりで見る古い映画、水族館やアートギャラリーに足を運ぶ……どれも時間がかかるがお金はそうかからない。大切なのは時間をかけることなのである。


p.100

その意味で、「楽にやる」ことが創造性を育む鍵になる。毎朝、三ページのモーニング・ページを書き、一日に一つ、自分自身にやさしいことをする。これを守れば、心が少しずつ軽くなっていくだろう。
ささいなことでいいから、具体的な方法で自分自身に親切にするよう、心がけてもらいたい。冷蔵庫やクロゼットを見てみよう。素敵な食事をしているだろうか?靴下は充分あるだろうか?余分なシーツは?新しい家の植物はどうだろう?古くなった服の一部を処分していたら?何もかもとっておく必要はないのだから。


p.106

たいていの人にとって、「大丈夫」は覆いをかける言葉だ。それはあらゆる種類の動揺に覆いをかけるが、その裏には喪失感が隠れている場合が多い。


p.130

ほとんどの人は、自分のやりたいことを断念することで、いい人間であろうとする。その結果、自らの創造性から離れてしまうが、「自分はいいことをしているのだ」という偽りの精神性を培っていく。これを私は善人の罠と呼んでいる。善人の罠は、自己否定の一つにすぎない。世間体を保ちたい、大人でありたいという衝動はアーティストをだめにし、終わらせることさえあるのだ。


p.154

私たちは何かをひねり出すことがアートだと考えるが、じつはそうではない。逆に、すでにあるものに触れ、それを原稿用紙や大理石といった素材に「降ろす」のがアートという行為なのだ。このことはアートについて考える場合、きわめて重要な意味をもっている。
何かをひねり出そうとするとき、私たちは自分の手の届かないところにあるものに手を伸ばそうと懸命になっている。一方、何かを「降ろそう」とするときには、努力も緊張もしない。私たちは何かをするのではなく、受け取るのだ。実際に手を下しているのは自分以外の人や物である。そんなとき、私たちは聞くことに専念する。


p.176

私が現在、メジャーの長編映画を任せられるまでになったのは、「なぜ私がこんな目にあわなきゃならないの?」ではなく、「次にどうしよう?」と自問しつづけてきたからにほかならない。


p.183

ほとんどの場合、「手順を踏む」ためにすべきことは、ほんのささいなことである。絵筆を洗う、画材店で粘土を買う、演技指導クラスの広告が載っていないかどうか地方紙をチェックする……。私の経験では、あなたの創造性を伸ばすためにとれる行動が、毎日、かならず一つはある。そうした日々のささやかな行動が手順を踏むことになるのだ。


p.185

詩人のセオドア・ローザックが書いているように、「私たちはどこに行かなければならないかを、行くことによって知る」。コツコツと手順を踏んでいくと、わざわざ大きな変化を生み出そうとする必要はないと分かってくる。大きな変化は、小さな変化の積み重ねによって自然に生じるからだ。


p.222

私たちはなによりも、今日は執筆がどれだけはかどったか、締め切りに間に合うように原稿を郵送したか、知り合いの輪を広げる努力をしたか、といったことをしっかり自分に確認しなければならい。ところが、他人との競争に心を奪われてしまうと、自分の足元が見えなくなってしまうのだ。挙げ句の果てに、自分が後れをとっている言い訳を探すようになる。


p.233

すぐれたアーティストかどうかは、初心に立ち戻る勇気をもっているかいないかで決まる。ある分野の巨匠と目されている私の友人は、あるとき何年も先の仕事までびっしりと埋まってしまっている状況に気づいた。彼は人のうらやむほどの高給を取っていたが、アーティストとしては決して好ましい状況ではないと思った。三年ごしのプロジェクトにしても、最初のころと同じような情熱で取り組めるか、正直言って自信がなかった。そこで、彼は損を覚悟で仕事を減らし、リスクは大きいがアーティストとしてためになる仕事に精を出しはじめた。もちろん私たちがみな、金のなる木を捨ててまで、自分の創造性に賭ける勇気を奮い起こせるかどうかはわからない。だが、努力することはできる。せめて、そうした心意気だけはもちたい。アーティストは旅人のようなものである。世俗的な価値観にどっぷりつかり、地位や身分にばかり心を奪われると、内的な導きにこたえることができない。


p.234

成功したアーティストにとって重要なのは、未来を抵当に入れないことである。大金が得られるから、二年間、あまり気乗りがしない仕事をするのは、かなり高い買い物だと肝に銘じておくべきだろう。


p.234

内なるアーティストを無視すると、その代償がすぐに外側の世界に現れる。創造行為が機械的になって生気を失い、創造が少しも楽しくなくなる。その結果、作品の魅力も失われ、経済的にも下降線をたどらざるをえない。


pp.245-246

私たちは、アイディアが植物のようにゆっくりと成長するのを見守ろうとせず、何かにつけていじりまわしたがる。だが、操作しようとすればするほど、本来の創造のプロセスから離れていく。創造は物事を操作することによってではなく、ありのままに物事を受け入れることによって可能になるのだ。


p.246

私は脚本の書き方を教えるクラスをもっているが、脚本の中盤で行き詰まった生徒がいると、なんでもいいから、家事をするようにすすめている。すると、たいていの生徒は、とまどい、なぜそんな平凡なことをしなければならないのかと腹を立てる。けれども、縫い物などはじつは、脚本の構想を練るのにうってつけなのだ。
私が生徒たちによくすすめるもう一つの趣味は、ガーデニングである。